三つ子の魂百まで と申しますが

不倒城 私にとっての中二病
以下>>はリンク先の引用文とします 改行で引用終わりです


>>「大人になれば分かる」とか、「子供をもってみないと分からん」とか、昔よく言われた。大抵の場合、私が何かしらの事項に疑問をもった時だ。
>>こちらは理屈で考えて真面目に議論しようとしているのに、その時点では絶対に手に入らない「経験」というシールドで議論を跳ね返されるのはどうにも納得がいかなかった。

同感ですだ!
僕も → 07-06-18-MonのZ兄さんへのレスでもそんな事かいてるよ
うちの親父は「どうだ俺の言っている事は間違っているか?」ってところまで説明する事があったのでそれは上記 しんざきさん に比べたら救いだったってことなのかなぁと思う
ですけどレスで書いてあるとおり 全て説明されてもやっぱり当時の僕にはまったく理解できなかったんだよね
子供って馬鹿だから理解できない事は どんなに説明してもその場では絶対理解できない
たまにもの凄い勢いで理解してくれる子供もいるけど それが本当に理解してるのか 熱心に説明しようとする僕という大人がウザイから処世術として理解したことにしているのか 判別は出来ない
そう 僕もしんざきさんと同じ考え方です 超ウザイ位 子供に理解させようと説明する人になってしまったんですよ あははー*1

いつか理解できることもあるし 出来ない事もあるでしょう それは人生の経験でもあるし それ以外の個別の学習によるものであったりもする
僕が思うのは何故大人が
>>「私の経験に基づくと君は間違っていますが、間違えていると判断している論拠は説明しません。納得しなさい」
という意味合いの言葉を吐くのかという事です
それにはきっと意味があるでしょう どうせ説明しても全て理解できない? 子供に説明するのが面倒くさかった? 自分に納得させるだけの力が無い?
きっと三つ目だと思うんですよね 次いで二つ目 一つ目
そして大人達には説明する文化が無かったのではないのか? 僕らが「○○になればわかる」という言葉で片付けられてしまった様に もしかすると大人達は僕らよりももっと酷い片付けをされたのではないか? 二代前の大人達には説明すらされない 言葉すらない 叱られもしなかったかも…
とすると 「○○になればわかる」との言葉は立派に進化した対応であると考えられるのです 更にそれを受け我々は説明責任を感じ次のステップを実行する
ま あくまで想像なんですが…

そうそう 本当はそんな事どうでもいいと思ってます
「○○になればわかる」という言葉は僕らの心に消える事の無い傷を残しましたけど 果たして僕らがやろうとしている
>> 例えば子供相手でも、議論で間違った部分があると思ったらテッテー的につきつめてやる。私は子供相手でも手加減はしない。相手が子供だから、ということで手加減するのは子供に失礼だと私は認識している。かつて私自身がそう思っていたから。
は 子供達にどんな影響を残すのだろう? ええ 僕もこの意見には賛成なんです というかもうやってます でもこれって本当に正しいの?子供的にこういうふうにされてどう思うの?
それでもいい これが信念だ!という結論に達しそうになったんだけれど それって僕のエゴ以外のなにものでもないよね
自分の子供に対したらなおの事 大人が子供にしてやらなきゃいけない態度ってどんなだろう?
もしかしたら僕は「○○になればわかる」って言葉は子供を奮立たせるのに適した言葉じゃないかと思い始めていますよ
なんせ そういわれて僕らが出来上がったわけだから…

あぁん まとまらないね これが僕の日記 仕方ないね(笑)
しんざきさんはパパか 凄いね 素晴らしいね 素敵だね もうそれだけで成功な気がするよ しんざきさんが僕の目の前にいたら ウダウダ言ってんじゃねぇ オメー 親父だろ? 言葉じゃねぇ 背中で語るんだよ!とでも言ってやりたいですけど へたれなのでトラックバックも送れない僕でした
この事はもっともっと考えないといけないですね 日本が近代文明になり子供が大人になり それが子供を生んで何代目かの僕たち 歴史は繰り返すと申しますが この大人と子供の関係は文明が進んでいくのと同じ 決して繰り返しているわけじゃないんだと思います それなりに進歩しているでしょう
上へ進歩させるか 下へ進歩させるかの違いをしっかりと感じながら進んでいかねばならないと思います いつも考えがまとまらないので また考えてエントリーします

*1:姪っ子とかは心底ウザイと感じるので(僕が姪を)あんまり説明とかはしません 大人になればわかる と心で唱えて無視します