自分がその意見に対して 何か違うな? と思っていても 周囲から浮かない様に意見をそろえて生きてゆく
みんなと違う意見を持つ事は 必ずしも英雄視されるわけではなく 大抵は異端扱いとなり 結果周囲に馴染めなくなる
しかし いつしか自分自身が 大衆の意見に飲み込まれ 今度は自分自身が異端を嫌うようになってゆく
いつまでも子供の頃のココロのままで なんて 純粋さを忘れない事を大切に思っても じゃぁ 子供の頃からもう そう言った大衆の意見に飲み込まれて 自分が何なのか判らない様な感じだったらどうすればいいのか?
そりゃぁ 周囲との調和は大切だ 民主主義は多数決主義だし 平和って言うものも 少しでも多くの人間が安らぎを感じている状態だ
だが それが自分を殺してまで守らなければいけない正義であると言えるのか?
例えば 環境の為にゴミはリサイクルしないといけない でも面倒くさいから全部まとめてどっかに埋めればいいじゃない
そうだそうだ 分別もリサイクルも面倒くさいしお金かかるから全部まとめて捨ててしまおう!
なんて事絶対あってはいけない これはチョット極端な話で実際にはありえない話だけど 言葉を置き換えて考えれば 僕達は同じ様な事を言っているときもあるだろう
皆が思っているという事の 事実が事実としてあっても それをやるべきでない時があるし それに反してやらなければいけない時がある
何を中心に置いて考えるかで正義は大きく変わってくる 自分中心の正義はエゴといって人類の生み出した最も恥ずべき考え方だ
自分達を守るために 周囲と足並みを揃える事のみに特化されている大衆の正義も 絶対の正義ではない
世界は偶然と気紛れで出来ている 絶対に正しい事はありえない
愛と勇気はどこに消えた? 希望を信じる心はどこで亡くなった?
僕達は愚かなまま エゴという生存本能を剥き出しにして 人類の殻に閉じこもったまま生きてゆくのだろうか
変える力は 人間の生きてゆく力だ
既に有るものを洗練させ ここに無いものを作り出し 歌を唄い 愛を奏で 全てを尊敬し 慈しむ事だって出来るはずなのに 今までそうしてきたはずなのに 苦しくても変えてきたはずなのに…